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あしぶえの歩み
あしぶえの年表
1966 (S41)
「劇団誕生」
松江南高校の卒業生、園山土筆ら 20 歳を年長とする 4 人で「松江演劇同好グループ」(仮称) を結成。演劇史の学びからスタート。
1969 (S44)
「忘れもしない塩事件」
正式名称を「劇団葦笛」とする。
旗揚げ公演パンフレットの掲載広告をもらいに行った商店で、
「劇団なんてとんでもない ! 」と塩をまかれる。
団員は 30 人以上に。
1970 (S45)
園山土筆が夫の転勤で広島市へ。以後 24 年間、宇部、広島、尾道、倉敷から通う。このことが影響して、他の団員らも、広島、鳥取、岡山、金沢、埼玉、仁摩、大田などから通うことになる。
1979 (S54)
中学の特別支援学級を描いた
「かげの砦」
に、初めて手話通訳を取り入れる。50 人ほどの聴覚障がいの人たちの共感の唸り声が、他の
600 人の観客を感動の渦に
引き込み、終演後しばらくは誰も席を立たなかった。初めて広島からの観客あり。
1980 (S55)
「奇跡の人」
を上演。鬼気せまる稽古のすえ、大成功間違いなしと思っていたが、照明の仕込みに手間取り散々な結果となって、スタッフ育成の必要性を痛感。広島、福岡の観客が来場。
1982 (S57)
劇団名を親しみやすい「あしぶえ」に変更。
1983 (S58)
退団者が相次ぎ、わずか 5 人に。サークル集団からの脱皮をはかって、スタッフなど基礎から学ぶことに。出演者の少ない
「狐とぶどう」
に挑戦。松江、出雲市公演とも不本意な舞台となって涙をのむ。だが、広島、大阪、福岡の観客からは、将来に期待する声も。創立 3 年目の塩事件以来、試行錯誤し、その悔しさはいつしか<演劇を認められるものにしたい>という<夢>に変わっていく。
1984 (S59)
「狐とぶどう」
の失敗を教訓に、大劇場ではなく小劇場で、「キューポラのある街」の 4 回公演を実施。初めて観客との濃密な交流が生まれ、<演劇は観客と共に創るもの>とあらためて実感する。
あしぶえ村構想
(のちの劇場建設構想) を話し合う。
1985 (S60)
「ブレーメンの音楽隊」
小劇場 5 公演を企画。チケットが飛ぶように売れ、親子対象の演劇づくりの必要性に気づく。
将来の夢を買う積立として団員が毎月出費して
もってけ貯金
を始める。以後、10 年 7 ヶ月、127 回続ける。
1986 (S61)
「ブレーメンの音楽隊」
広島公演は大盛況。劇団始まって以来の黒字に。これに加えて借金をし、200 万円で松江市砂子町の 12 坪の劇団事務所を改築して、客席
50 席の劇場
を造る。照明、音響、幕類を完備した小劇場としては、中国地方で初めて。
以後、<演劇を人々の暮らしの中へ>の活動が本格的に始まる。
1987 (S62)
「あしぶえ 50 人劇場」柿落し公演、園山土筆作
「落ちこぼれの神様」
を上演。以後、東京、広島、出雲市公演を行い、合計 37 ステージ上演。全国の地域劇団でも上演された。
1989 (H1)
宮沢賢治原作
「セロ弾きのゴーシュ」
の 1 年間 46 ステージロングラン公演スタート。「わからない」「つまらない」「おもしろくない」と言われ、
観客がわずか 4 人
のときも。「ほかの作品が観たい」といわれながらも稽古を重ねて演じ続けた。
1990 (H2)
苦しみながらも、とうとう 46 ステージ完演。
日本アマチュア演劇史上初のこととして、全報道機関が取材。観客は、東京から鹿児島まで拡大。
積立て金、賞の副賞などが 500 万円に達したのをきっかけに、
100 人劇場の土地探し
を開始。
1991 (H3)
あしぶえの名にこだわって宍道湖近くを歩くが土地は見つからず。平田市、玉湯町、宍道町、斐川町とエリアを広げて探すが見つからず。
1992 (H4)
八雲村の石倉徳章村長を訪問。その日のうちに平原の土地を見せてもらい、
「ここだ ! 」
と決める。その後、村長を訪ねるうち、「応援したいと思いますが」と。初めて演劇や劇団が信用されて夢がふくらむ。その後、劇場の基本設計・実施設計に参画。
1994 (H6)
劇場建設が決定してあしぶえも 3,000 万円集めることになり、劇団員積立て金、賞の副賞のほか一時金を準備し、家族や全国のファンの人たちにカンパを依頼。
「ゴーシュ」で
アメリカ国際地域演劇祭
に参加。初めての海外公演で 11 ヶ国の劇団と競演。絶体絶命の大ハプニングの末、思いがけなくも
最高賞の「第 1 席」
、園山土筆が
「演出賞」
、長見好高が
「舞台美術賞」
を受賞。
ホームステイをしながら、世界の演劇人と交流することの意義を知る。笑い声を上げ立ち上がって拍手する各国の人たち。観客を育てることも自分たちの仕事だと気づく。
1995 (H7)
「しいの実シアター完成」
国内初の公設民営劇場「しいの実シアター」(108 席) が完成。
星降る里の演劇フェスティバル
に全国 36 劇団の演劇人が集う。
1996 (H8)
劇団員の力の結集で、ついに
3,000 万円を集め、八雲村へ寄付。
1997 (H9)
「文化庁・文化のまちづくり事業」が村規模では全国初の採択。「演劇楽校」「シンポジウム」「シアター公演」「国際演劇祭」など、採択されることを願って作成した盛りだくさんの企画。そのため、以後 3 年間の活動がどれほど大変になるかは、後になって気づく。
1998 (H10)
カナダ「リバプール国際演劇祭」で「ゴーシュ」を上演。観客総立ちの拍手を受けて
「観客が選ぶ作品賞」
受賞。ゴーシュ役の三木卓二が
主演男優賞受賞
。
人口 3,000 人の町でボランティアが運営する演劇祭は、その後のあしぶえに大きな影響を与えた。
1999 (H11)
八雲国際演劇祭スタート !
地域住民、八雲村行政、劇団あしぶえの三者が一体となって、
'99 八雲国際演劇祭
を開催。この演劇祭は、「イベント」ではなく、「演劇によるまちづくり」であると示す。
2000 (H12)
表現・コミュニケーション力育成事業
を本格的に実施。
シアターの名誉館長に有馬稲子さんが就任。
2002 (H14)
第 1 回 八雲国際演劇祭
開催。ボランティアスタッフ 314 名の力の結集で大成功を収める。
八雲小学校で、3 年生対象の年間 20 時間の表現授業
「あしぶえタイム」
がスタート。以後 2015 年まで
14 年間継続。
2003 (H15)
カナダ
2003 世界演劇会議
と
フェスティバル
に「ゴーシュ」で参加。
視覚的舞台表現最優秀賞
を受賞。
2004 (H16)
第 2 回 八雲国際演劇祭
開催。中学生ボランティア 41 名も参加。
ボランティアリーダーがフィンランドの子ども演劇祭に参加。
2005 (H17)
NPO 法人へ
法人化を検討して申請し「特定非営利活動法人」となる。
2007 (H19)
合併後、新・松江市として
第 3 回 八雲国際演劇祭
開催。
しいの実シアターの指定管理者となる。
2009 (H21)
NHK ラジオ「おはよう中国」に園山土筆が出演。以後毎月 1 回 3 年間、全放送原稿を書く。
2010 (H22)
第 4 回 八雲国際演劇祭開催
2013 (H25)
認定 NPO 法人へ
「演劇による人づくり・まちづくり」への理解と支援を得て社会事業として発展させるため、認定 NPO 法人となる。
2014 (H26)
森の演劇祭開催 !
(第 5 回八雲国際演劇祭)
コンテスト公演を廃止して、クオリティの高い作品選定の結果、演劇祭に対しての満足度は 88% 、上演作品への満足度は 97% を記録した。
2015 (H27)
「森の小さな演劇祭」
の愛称でミニ国際演劇祭を開催。
2016 (H28)
あしぶえ創立 50 周年
しいの実シアター未来学校を開校。
2017 (H29)
松江・森の演劇祭 2017
を開催。
2018 (H30)
「セロ弾きのゴーシュ」の総仕上げ公演
初演から 28 年、上演 175 回、3 万 8 千人が観劇し、海外演劇祭で 6 つの国際賞を受賞したけれど、
「もっといい舞台にしたい」と音楽を一新して、28 年間の総仕上げ公演
を実施。
2019(H31 ・ R1)
11 月、在ブルガリア日本大使館の招待を受け、「セロ弾きのゴーシュ」を、日本語 4 割、ブルガリア語 6 割で、首都ソフィアとブルガスで上演。
アクシデントなど海外公演の大変さはありましたが、観客はブルガリア語の発音とゴーシュのチェロ演奏に感動し、全観客スタンディングオベーション。
6/22 一畑薬師法堂での「セロ弾きのゴーシュ」一畑薬師公演。9/22 ・ 10/6 しいの実シアター公演
11/3 ・ 11/7 ブルガリア公演では、セリフをブルガリア語 6 割・日本語 4 割で上演し、大好評
12/3 、浜田市立三隅小学校体育館で学校公演 (三隅小・岡見小・美川小)
1/14 しいの実シアターで学校公演 (安来市立布部小・比田小・山佐小、松江市立八雲中学校)
通算 199 回目のステージ
あしぶえの年表
© Ashibue.